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第6話 七つの席

Auteur: なつめ
last update Date de publication: 2026-08-04 08:55:34

 扉の向こうには、八年前の教室が残っていた。

 廊下の床は腐り、壁は雨水に黒く侵されていたのに、二年七組の中だけは時間の流れ方が違って見えた。剥がれかけた掲示物も、傾いた黒板も、窓際に吊られた薄いカーテンも、澪の記憶にある形を保っている。

 教室の中央には、七つの机が円を描いて並べられていた。

 朔の懐中電灯が一脚ずつを照らす。

 机は互いの正面が見えるよう、わずかに内側へ向けられている。天板には傷も落書きもなく、椅子はすべて引かれた状態だった。誰かが七人の到着を待ち、座る位置まで整えたようだった。

 それぞれの机の上に、白い封筒が置かれている。

 雨宮澪。

 神代朔。

 早乙女美月。

 黒瀬悠斗。

 白石奈々香。

 相馬透。

 墨で書かれた六人の名が、湿った空気の中で鮮明に浮かんでいた。

 七つ目の封筒には、椎名澄花。

 その机だけが、ほかと違っていた。

 六脚の机は表面が灰色に乾き、金属の脚に赤錆が浮いている。澄花の席だけは木目が明るく、磨かれたばかりのように淡い艶があった。椅子の背には傷一つなく、天板の右端に、小さな花の形をした赤い髪留めが置かれている。

 奈々香が息を呑んだ。

 門の箱に入っていた、割れた髪留めと同じ形だった。

「どうして……」

 奈々香の声が掠れた。

 誰も答えない。

 透は録音機を胸元まで持ち上げ、教室の音を拾っている。赤い表示灯が、鼓動のように明滅していた。

「入る前に確認する」

 朔は扉の脇へしゃがみ込み、床と蝶番へ光を当てた。

「扉に罠らしいものはない。窓は全部閉まってる。天井の照明は配線が切れてる」

「じゃあ、さっき明かりがついたのは何なの」

 美月が問う。

「外から投光した可能性はある」

「三階の窓へ、あの角度で?」

「可能性の話だ」

 朔は教室の奥を見た。

 その横顔に迷いはなかったが、懐中電灯を握る指だけが僅かに強張っている。

 悠斗が先に中へ入った。

「立って見ていても何も分からない。仕掛けた奴は、俺たちにこれを開けさせたいんだろ」

「勝手に触らないで」

 美月が止める。

「触らなきゃ帰れないなら、同じだ」

 悠斗は自分の名が書かれた封筒を持ち上げた。

 糊付けはされていない。指を入れると、封は簡単に開いた。

 中から二つ折りの白い紙が出てくる。

 悠斗は一行目を見た瞬間、口元を引き結んだ。

「何が書いてあるの」

 澪が訊いた。

「先に全員、自分のを見ろ」

 悠斗は紙を伏せた。

 六人はそれぞれの机へ近づいた。

 澪の席は、澄花の斜め向かいだった。

 椅子の背へ触れると、木がひどく冷たい。雨に濡れているわけではないのに、指先から体温を奪われるようだった。

 封筒を開く。

 中には、短い問いだけが印刷されていた。

 最後に澄花の声を聞いた場所は?

 文字を見た途端、教室の空気が狭くなった。

 澪は紙を持ったまま、息を吸えずにいた。

 八年前。

 廃校の廊下。

 懐中電灯の光が揺れ、誰かが遠くで自分の名を呼んでいた。閉じた扉の向こうから、爪で木を引っ掻く音がした。

 澪ちゃん。

 確かに澄花の声だった。

 けれど、どの扉だったのか。何階だったのか。そのあと自分が何をしたのか。記憶の中心だけが、白い霧を詰めたように抜け落ちている。

「見せろ」

 朔の声で、澪は顔を上げた。

 六人は円の内側へ紙を出した。

 朔の紙。

 撮影を止めたのは誰?

 美月の紙。

 澄花が負傷していたことを知っていた?

 悠斗の紙。

 立入禁止区域の鍵を開けたのは誰?

 奈々香の紙。

 澄花と争った理由は?

 透だけが、紙を開いた直後に二つへ折った。

 けれど、折り目が重なる前に、澪には冒頭の一行が見えた。

 八分十三秒の音声を消したのは誰?

 胸の奥で、何かが鈍く脈打った。見覚えのない問いなのに、その数字だけは以前から知っていたような感触がある。八分十三秒。暗い場所で誰かが同じ長さを数えていた。そんな記憶が浮かびかけ、すぐに白く途切れた。

 白い紙が、黒いパーカーのポケットへ消える。

「透」

 朔が呼んだ。

「何だ」

「質問を見せろ」

「関係ない」

「全員、別のことを訊かれてる。関係があるかは見てから決める」

「俺のことだ」

 透はポケットの上へ手を置いた。

 ヘッドフォンの耳当てが肩へ触れ、微かな布擦れを立てる。

 朔は数秒、透を見つめた。

 無理に近づかず、視線を外す。

「分かった。今はいい」

「どうして放っておくの」

 美月が鋭く訊いた。

「隠すなら、何かあるってことでしょう」

「奪えば話すとは限らない」

「八年前も、そうやって誰も問い詰めなかった」

 美月の言葉が、教室の中央へ落ちた。

「負傷って何だ」

 悠斗が美月の紙へ顎を向ける。

「澄花は、いつ怪我をしてた」

「知らない」

「紙には、知っていたかと書いてある」

「質問されたことが事実になるわけじゃないでしょう」

 美月は紙を握り直した。爪が白い紙へ食い込み、細い半月形の跡を残す。

「あなたこそ、鍵を開けたの?」

「俺が見つけたと決まったわけじゃない」

「開けていないなら、そう書けばいい」

「お前に言われる筋合いはない」

 二人の声が重くぶつかった。

 奈々香は争いを止めることもせず、自分の問いを胸元へ隠している。澄花と争った理由。そこに書かれた言葉を見られるだけで、皮膚を剥がされるような顔をしていた。

 透は目を伏せたまま動かない。

 澪は彼のポケットの形を見た。折った紙の角が布越しに浮いている。

 透の質問を見ていないふりをしても、数字は頭から消えなかった。

 八分十三秒。

 その数字を考えた瞬間、耳の奥で古いテープが巻き戻るような音がした。

 黒板を爪で擦る音が響いた。

 全員が振り返る。

 先ほどまでの赤い文字は消え、白い線がゆっくりと浮き上がっている。

 答えを書いて、机の中へ入れてください。

 嘘は数えます。

 文字の最後から、白い粉が細く落ちた。

「馬鹿馬鹿しい」

 悠斗が吐き捨てる。

「誰が書いたかも分からない質問に答える必要はない」

 彼が扉へ向かう。

 しかし、開いたままだった扉は動かなかった。

 取っ手を回しても、押しても引いても、壁へ縫いつけられたようにびくともしない。

「何だ、これ」

 悠斗が肩をぶつける。

 扉の向こうでは、廊下の暗闇が見えている。隙間もある。それなのに、境目に透明な板でも立っているように、身体だけが外へ出られない。

 悠斗が手を伸ばす。

 指先は扉の位置で止まり、強く押し返された。

「どいて」

 美月も触れたが、同じだった。

 朔は懐中電灯の柄を境目へ差し出した。光は廊下へ届く。だが、柄の先は見えない何かに当たり、進まない。

「答えろってこと?」

 奈々香の声が細くなる。

 教室のどこかで、椅子が一脚だけ軋んだ。

 澄花の席だった。

 誰も座っていない。

 それでも座面が僅かに沈み、背もたれへ重さが掛かった。

 澪は紙を握りしめた。

 机の中には、短い鉛筆が一本置かれている。六人の席すべてに同じものがあった。削られた先は鋭く、木軸には歯形のような細かな傷が刻まれている。

「書くしかない」

 澪が言った。

「澪」

 美月が止めようとする。

「扉が開かないなら、ここにいる方が危ない。正しいかどうか分からなくても、覚えていることを書く」

 朔は澪を見た。

「無理に思い出すな」

「でも、訊かれてる」

「思い出せないことを埋めようとすると、違う記憶を作る」

 優しい言葉ではなかった。

 けれど、朔の声は低く、澪の乱れた呼吸へ合わせるようにゆっくりしていた。

 澪は頷き、椅子へ座った。

 背後に澄花の席がある。

 振り返らなくても、そこから見られている感覚が消えない。

 紙の空白へ鉛筆を置く。

 最後に澄花の声を聞いた場所。

 暗い廊下。

 閉じた扉。

 指先で木を掻く音。

 澪ちゃん。

 その声は、右側から聞こえたのか、左側だったのか。

 理科室の薬品臭がした気がする。床に割れた硝子があり、朔が足元を照らしていた。けれど、その記憶が八年前のものか、今夜見た破片と混ざったものか判断できない。

 澪は迷った末、書いた。

 理科準備室の前。

 鉛筆の芯が紙へ引っかかり、「前」の最後が濃く潰れた。

 朔は紙を伏せている。

 美月は何度も書いては消し、紙の一部を黒く汚していた。

 悠斗は短く何かを書き、すぐに腕を組んだ。

 奈々香は唇を噛み、澄花の机を見ないように顔を背けている。

 透はポケットから紙を戻さなかった。

「書かないのか」

 朔が訊く。

「書いた」

 透は折ったままの紙を取り出した。

 開こうとはせず、そのまま机の中へ入れる。

 澪も自分の紙を机の中へ滑らせた。

 内部は暗く、奥行きが異様に深く見える。紙が底へ触れる音はしなかった。

 全員が回答を入れる。

 最後に奈々香が手を引いた瞬間、教室の照明がついた。

 白い光が、七つの机を真上から照らす。

 電源は落ちている。

 配線も切れている。

 それでも蛍光灯は青白く燃え、天井の染みと六人の顔を容赦なく浮かび上がらせた。

 光は一度、大きく明滅した。

 暗闇。

 澪の背後で、誰かが椅子から立つ音がした。

 衣擦れ。

 浅い呼吸。

 濡れた上履きが床へ触れる音。

 振り返る前に、照明が戻った。

 澄花の席は空のままだった。

 黒板には、赤い文字が書かれている。

 嘘つきが三人います。

 美月の喉が鳴った。

「三人……」

 誰も隣の顔を正面から見られなかった。

 六人のうち、半分が嘘をついた。

 それとも、本人が真実だと思って書いた答えまで、嘘として数えられたのか。

 澪は膝の上で両手を握った。理科準備室の前。あれは本当に自分の記憶だったのだろうか。ほかの誰かから聞かされ、繰り返すうちに自分のものへ変わった場所ではないのか。

 朔は黒板ではなく、六つの机を順に見ていた。

「何を書いた」

 悠斗が低く問う。

「まず自分から言ったら?」

 美月が返す。

「俺は覚えている通りに書いた」

「何て?」

「鍵を開けたのは、分からないと」

「それを答えとは言わない」

「お前は澄花の怪我を知っていたのか」

 美月の頬から血の気が引いた。

 奈々香が鞄を抱え、二人から距離を取る。透だけは椅子へ座ったまま、ポケットの中で指を動かしていた。折った紙がそこに残っているはずなのに、机の中へ入れたものと同じ薄い角が、布越しにもう一つ浮いて見えた。

 悠斗が黒板へ歩み寄った。

「ふざけるな!」

 黒板消しを掴み、赤い文字へ叩きつけるように擦る。

 粉が舞い、彼の雨具と頬へ赤い筋がついた。文字は簡単に消えた。

「誰がこんな仕掛けを作った! 出てこい!」

 怒鳴り声が教室の壁を震わせる。

 返事はない。

 代わりに、奈々香の鞄から明るい電子音が鳴った。

 配信開始を知らせる音だった。

 全員の視線が集まる。

 奈々香の顔が凍りついた。

「違う、これは……」

 朔が鞄を見た。

「配信はするなと言った」

「してない。まだ公開にはしてないはずで――」

 奈々香は慌てて鞄を開き、小型カメラとスマートフォンを取り出した。

 画面には生配信中の赤い表示が灯っている。

 撮影は教室へ入る前から始まっていた。

 奈々香のアカウント名。配信時間。音声も映像も、途切れず外へ送られている。

「止めろ」

 朔が言う。

「止まらない」

 奈々香は画面を何度も押した。

「終了を押してるのに、反応しない」

 視聴者数は七人だった。

 コメント欄には、同じアカウントから書き込みが流れ続けている。

 〈SUMIKA〉

 奈々香、昔から隠し事が下手だね。

 奈々香の指が止まる。

 次のコメントが現れる。

 画面の右端に、私がいるよ。

「見ない方がいい」

 澪が言うより早く、奈々香は配信画面を横へ向けた。

 画面の中に、円形に並んだ七つの机が映っている。

 澪。

 朔。

 美月。

 悠斗。

 奈々香。

 透。

 六人全員が、青白い顔で立っていた。

 そして画面の右端。

 澄花の机に、制服姿の少女が座っていた。

 濡れた黒髪を胸元へ垂らし、両手を膝の上に揃えている。

 顔は俯いて見えない。

 右手首には、赤い組紐が巻かれていた。

 現実の席は空いている。

 それでも画面の中の少女だけが、ゆっくりと顔を上げた。

 髪の隙間から片方の目が覗く。

 その視線は奈々香ではなく、円の向こうに立つ三人を、順番に数えていた。

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